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    グラナダ王の涙のレストラン「ススピロ・デルカンドーレ」(遠藤泰男)

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      アルハンブラ宮殿をカトリック両王に明け渡した、ナスル朝グラナダ王国の最後の王、ボアブディルはグラナダを追われ、家族や家臣とともに山深いアルプハーラへ向かった。

      グラナダの町を最後に見渡すことができる小高い「涙の丘」に立ち、はるか遠くに広がる街の景色を眼に焼きつけるように見つめる王。

      王は「アラーフ・アクバル(神は偉大なり)」とつぶやき大きな溜め息をつく。

      後に「涙の丘」は人知れず「モーロ人(イベリア半島を支配したイスラム教徒)の溜め息峠」と呼ぶようになった。

      グラナダから南へ約一五キロ、辺り一面麦畑が広がるのどかな田園風景の中に、「プエルト・デ・ススピロ・デルカンドーレ」はある。

      標識が見えてくると、麦畑とオリーブ畑が広がるなだらかな丘の上に見張り塔のような塔を配した建物が現れた。

      ススピロ・デルカンドーレという名のレストランだった。

      もしかしたら「涙の丘」はここにあったのかも知れない。

      レストランに入ると、カマレロ(ウェイター)が展望台になっている塔のほうへ案内してくれた。

      展望台からグラナダの街がうっすらとかすかに見えた。

      グラナダを明け渡したボアブディル王がアルプハーラに向かったのは、降伏を条件に、現在のアルプハーラ地方のほとんどを、ボアブディル王の領土として与えるという、カトリック両王との密約によるものだった。

      彼らは、アルプハーラのラウハール・デ・アンダラクスに居を構え、スペインを後にするまでの約二年間、ひっそりと暮らしていたと伝えられている。

      グラナダのムスリムたちも、次第にアルプハーラへ居を移すようになり、アルプハーラはますますイスラム色を濃くしていった。

      現在のアルプハーラ地方は、シエラ・ネバダ山脈とガドール山脈の問の高原地域を指し、グラナダ県と隣のアルメリア県にまたがって点在する約一二〇の村を総称している。

      交通の便が悪く過疎の農村地帯だったが、手付かずの自然の中で生活を営む村の人々の素朴さとノスタルジックな村の景観が、イギリスやフランスの作家に紹介され、一躍人気の観光地となった。

      夏の避暑地としても知られている。

      アルプハーラの村々を抱くムルアセン山は、シエラ・ネバダ山脈の主峰で、標高三四八ニメートル。

      イベリア半島の最高峰だ。

      ムルアセン山という名称は、スペイン最後のイスラム王、ボアブディルの父の名前、ムーレイアセンに由来している。

      老境迫った王は、シエラ・ネバダ山脈の最高峰の頂に、死後自分の亡骸を葬るように命じた。

      王の死後、王を偲んでムルアセン山の山頂へ参拝する風習があったというが、レコンキスタ後、この伝統的な参拝は禁じられた。
       
      遠藤泰男(ライター)

      ☆☆☆

      ローマ遺跡は一九二〇年に発掘が始まり、一九二五年に国の文化財に指定された。

      面積は十三万平方メートル、モロッコで見た古代ローマの都市遺跡、ヴォルビリスのように典型的な古代ローマ都市の造りであった。

      商取引や裁判、市民集会用の広場を中心に、カピトル神殿、裁判や集会に用いられた公会堂バシリカなどの遺跡が残っている。

      古代エジプトの女神で豊穣の神、イシスの神殿跡もカピトル神殿の隣にあった。

      町の北側にはローマ劇場跡も残っている。

      海岸沿いには、ガルムや塩漬け加工のための工場跡が残っており、大きな円形の窪みが数カ所残っていた。

      この集落の重要な産業は、魚の塩漬け加工や塩漬けした魚の内臓をベースとした調味ソース、ガルムの製造だった。

      ここは、そのガルムを古代ローマ帝国に輸出する重要な海岸都市の一つだったのだ。

      ガルムは古代ローマ時代の贅沢品で、周辺の大西洋沿岸にはガルム製造で栄えた小さな都市が点在していたらしい。

      この遺跡周辺からは、ガルム輸出に使用されたアンフォラの壷が発掘されている。

      この遺跡の西に、地中海マグロの捕獲地と知られているサアラ・デ・ロス・アトゥネスという町が控えている。

      遠藤泰男(ライター)

      ハンマム初体験宿(遠藤泰男)

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         ハンマム初体験宿はハンマム(公共風呂)も経営していた。

        前回入ったススピロデルカンドーレという名のレストランでも評判となっていたので、是非どんなものか体験したかった。

        宿の主人に聞いてみると男性専用だという。

        しかし、男性の利用者が終ったら利用させてくれるという。

        ミントティーを飲みながら小一時間程待った後、係りの人が呼びにきてくれた。

        中は少し薄暗かったが、入口に脱衣所と休憩所のスペースがあり、その奥に浴槽が並んでいた。

        ハエンで見学したアラブ風呂跡と構造がほぼ同じだった。

        念願のハンマムだったが、薄暗く、独りで利用するにはあまりにも広くて心細かった。

        入口付近の浴槽に入ってみたが低温槽のため、ぬるま湯で風呂に入った気分にならなかった。

        一番熱い高温槽の浴槽に入るためには、風呂の一番奥まで行かなければならない。

        ハエンのアラブ風呂の中で王様が暗殺された話を思い出すにつけ、奥まで行ってしまうと戻ってこられなくなりそうな気がして怖かった。

        とはいうものの、熱い風呂につかりたい欲望は断ち切れず、勇気を出して一番奥の高温槽に入ってみた。

        湯の温度はちょうどいい湯加減で快適だったが、やはり気分が落ち着かず、カラスの行水で早々と風呂から切り上げた。

        外に出ようとすると今度は出口の扉が開かない。

        もう一度強く押してみると、扉は軋む音を立ててやっと開いた。

        誰も入らないように、外から扉の前に椅子を置いてくれていたため、開けにくくなっていたのだ。

        椅子の上にアラビア語でご丁寧に張り紙までしてくれる気の遣いようだった。

        もう少し、ゆっくり湯につかっていればよかったと後悔した。

        遠藤泰男(フリーライター)
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        ドリシ街道(遠藤泰男)

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          スペインのゾート地として知られるジブラルタル海峡に突き出すスペイン最南端のタリファから東側のモトリル近くのサロブレーニャまでの地中海の海を結び、そこから内陸部へ入りグラナダを結ぶ約三〇〇キロのルート。

          理学者アル・イドリシが両シチリア王国のロジェールニ世の命で十二世半に旅したルートだが、現在は国際リゾート地が広がっており、人倉、村ロンダ、ミハスなども点在する。

          タリファから古代ローマ遺跡、バエロ・クラウディアヘモロッコへの玄関口、アルヘシラス港からスペイン最南端のタリファに向かって、白い巨大なプロペラ型のモリーノ(風車)が海岸線に突き出す丘の稜線を覆うように並んでいる。

          ジブラルタルの岩山を通して吹きつける強い突風のような東風を利用しているのだ。

          タリファの海岸沿いには、カラフルなウインドサーフィンのセイルも、数え切れないほど見えた。

          よいブロー(ウインドサーフィンに適した風速一〇〜一五メートルの風)が吹く、ヨーロッパでも有数のウインドサーフィンのポイントでもあるのだ。

          風車が回る丘の下に、ジブラルタル海峡に向かって突き出す展望台があり、車を止めてジブラルタル海峡を眺める人々であふれていた。

          水平線のかなたに、藍色の山々が浮かんでいるように見える。アフリカ大陸だ。スペイン最南端のこのタリファ岬から、対岸のアフリカ大陸の先端までたったの十三キロという近さなのだ。 カンドー 遠藤泰男 タリファから、さらに西のカディス方面へ一五キロ程車を走らせ、谷間という意味のエル・バリェという分岐点から、大西洋岸へ向かって約七キロ、目指したのは古代ローマ遺跡だ。パロマ岬とグラシア岬の間に位置する、なだらかな白い砂浜が続く人気のない海岸沿いに古代ローマ遺跡はあった。バエロという名称で、紀元前一七一年に創設された古代ローマ都市の跡だ。

          紀元一世紀のクラウディウス帝の統治時代、最大の発展を遂げ、皇帝の寛容な政策により、バエロの人々にもローマ市民権が与えられ、後に皇帝に敬意を表してバエロ・クラウディアと呼ばれるようになったという。

          遠藤泰男(ライター)

          アストルガ(遠藤泰男)

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            アストルガは幹線道路が交差する交通の要衝地だった。

            メリダは紀元前25年、カンタブリア戦争で戦った兵士たちの定着地として、アウグストゥス帝(オクタビアヌス)の命で創設された町だ。

            西に控えるポルトガルのリスボン、南のコルドバ、北東のトレド、サラゴサへの幹線道路が交差している要衝の地に位置し、その後ルシタニア州の州都として発展した。

            古代ローマ競技場、古代ローマ劇場の他、町に点在している古代ローマ遺跡が世界遺産に登録されている。それぞれの遺跡の建てられた年代を追ってみると、メリダが急速に都市として成長してきたことがわかる。 カンドー 遠藤泰男 まず、グアディアナ川に架かるローマ橋がある。スペインに残っているローマ橋の中でも最長の792メートルで60のアーチに支えられている。建設は都市の創設年代同様、紀元前25年頃と推定されている。

            遠藤泰男(フリーライター)
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            ナスル朝グラナダ王国(遠藤泰男)

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              ナスル朝グラナダ王国は、建国当初から領土防衛のため、納税による「自治を買う」ことでキリスト教勢力と折り合いをつけ、息の長い政権を存続させていたが、15世紀には、カスティーリャ王国による持続的な攻撃が挑まれ、衰退していく。

              1469年、カスティーリャ王国の女王イサベルと、アラゴン王国のフェルナンドが婚姻を結び、1479年両国は合併し、カトリック両王(イサベル女王、フェルナンド王)の下で、攻撃の矛先はグラナダへと向けられた。

              1482〜92年のグラナダ戦争を経て、最後の王、ボアブディルは降伏、アルハンブラ宮殿を無血開城し、ナスル朝グラナダ王国は滅亡する。

              イベリア半島でのイスラム支配に終止符が打たれたのだ。

              1997年の奪還の日は1つの転換期だった。

              ナスル朝グラナダ王国最後の王、ボアブディル王の銅像の除幕式が行われたからだ。

              除幕式の会場で、右翼団体がボアブディル王の銅像の除幕式をスペイン史への冒涜だと罵倒している中、グラナダの歴史文化協会の会員が、カトリック両王とボアブディル王の切手が貼られた封筒を記念に配っていたのが印象的だった。 カンドー 遠藤泰男 第2共和制(1931〜36年)時代には、奪還の日に、イスラム風の衣装に身をまとった人々が号泣するといった、イスラム支配時代のグラナダへの哀悼を演出するようなパフォーマンスも自由に行われていたというが、その後のフランコ独裁時代、カトリック・キリスト教が、国教と定められ、イスラム支配時代に関連する催しは長い間、姿を消していた。

              グラナダの奪還の日に、イスラム支配時代のスペイン史について頻繁に取り上げられるようになったのは、1995年にアンダルシア州政府とグラナダ県観光促進課の共同作業により、アル・アンダルス街道が発表され、関心が高まったことも大きいだろう。

              遠藤泰男(フリーライター)

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              レイ・チコ坂からアルハンブラ宮殿ヘ(遠藤泰男)

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                グラナダの旧市街、アルバイシンのはずれから、ダルロ川に架かるレイ・チコ橋を渡り、アルハンブラ宮殿を目指してレイ・チコ坂を登っていった。

                アルハンブラ宮殿へ続く裏道、レイ・チコ坂は何だか秘密めいていた。

                19世紀末頃まで、アルハンブラの後部にある墓地への葬列の通り道として使われていたといい、死者の坂道と呼ばれていたという話も頷ける寂しい道だ。

                レイ・チコ坂のレイ・チコ(小王)とはボアブディルのことだという。

                ナスル朝王グラナダ王国の最後の王だ。

                この道は、息子ボアブディルと共に、アルハンブラ宮殿のコマレスの塔の一室に幽閉されていたアイシャ王妃が、ボアブディルを脱出させ逃亡させた伝説の道なのだ。

                父ムーレイ・アセン(アブル・ハ)は正妻であるアイシャ王妃の他に、お気に入りだったキリスト教徒の若い息子をもうけていた。

                王の臣下らと息子に王位を継がせようと目論むアイシャ王妃の息子ボアブディル勢力に分かれていた。

                ソラヤの陰だが、アイシャ王妃が息子ボアブ王位を奪う画策をしているという噂が王の耳に入り、王は王妃と息子ボアブディルを監禁したのだ。 カンドー 遠藤泰男 「ボアブディルを生かしておかぬ」という王の言葉を恐れたアイシャ王妃は、自分と侍女のべールや頭巾を綱のようにして、塔の窓から垂らし、息子を塔から脱出させた。

                脱出に手を貸したのが、代々王家に仕えてきた名門アベンセラーヘス家の騎士たちだ。

                遠藤泰男(フリーライター)
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                ハリウッドに見られる(遠藤泰男)

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                  ミュンセル街道の謎ミュンセル街道は、1494年秋から5カ月間、医師ヒエロニモス・ミュンセルが、ドイツのニュルンベルグから、2人の商人を同行し、スペイン・ポルトガルを旅した旅程の一部だ。

                  後年、ミュンセルはラテン語による『旅程』という旅行記を著し、レコンキスタ後のムスリムの生活や、両国の地理的知識などを詳細に記述している。

                  しかし、旅行記を読むかぎり、肝心の旅の目的がはっきりしない。

                  にもかかわらず、到着する都市には土地の名士や貴族などが彼らを待ち受け、特別の配慮の下で旅を続けているのがわかる。

                  さらに謎めいているのは、スペインのカトリック両王やポルトガル王ジョアン2世と謁見していることだ。

                  最近の研究で、ミュンセルは、地理学者マルティン・ベハイムを中心としたニュルンベルグ地理学派の一員だったことが明らかになった。

                  マルティン・ベハイムは、ポルトガル王ジョアンニ世に仕え、ポルトガルが行っていた新航路発見事業に協力した後、ニュルンベルグに戻り、1492年に地球儀を作成した人物だ。
                  ミュンセルは神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の密使として、この奇妙な旅に乗り出すことになったのだ。

                  彼は2つの任務を負っていた。

                  第1は、スペインでのコロンブスの新大陸発見の成果と、カトリック両王が画策している新航路発見事業についての新情報の入手だ。

                  第2は、ポルトガル王のジョアン2世に対して、神聖ローマ帝国と共同の新航路発見事業参画を談判することだった。

                  ジョアン2世はエンリケ航海王子の後を継いで、アフリカ西海岸の進出を積極的に行い、アフリカ回りのインド到達航路を発見する探検事業に力を注いでいた。

                  これらの新事実を知った上で改めて旅行記を読み直すと、当時スペインやポルトガルで東奔西走していたであろう、無数のミュンセルのような密使の姿が目に浮かんでくる。

                  ポルトガルとスペインは、探検事業による利益を守るため、新航路の詳細について厳重な秘密主義という姿勢を貫いていた。 カンドー 遠藤泰男 しかし、帰還を果たした船から積み降ろされる奴隷や香料などを目にした外国商人たちは、その探検に同行した船乗りを巧みに買収して情報を得たり、地図を写し取ったりと、あらゆる方法でスパイ行為に励み、自国に情報を流していたという。

                  ミュンセルの旅行記にも、ジョアン2世の宮殿で、アフリカからもたらされた金、象牙、初めて見るラクダに目を奪われる場面や、セビーリャでコロンブスによって新大陸から連れてこられた人々を初めて見た様子が生き生きと描かれている。

                  彼らの素直な驚きや東方の富への飽くなき好奇心が、未知の大陸への航路発見事業の裾野を、ヨーロッパ全土へ広げる役割を果たしたのだ。

                  密使としてのミュンセルの旅は、結局これといった成果ももたらさず、徒労に終わったが、その後神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子フェリペ1世が、カトリック両王の娘、狂女ファナと婚姻関係を結ぶことになる。

                  その嫡男カルロス1世が、神聖ローマ皇帝力ール5世として、スペインを含む広大な領土を支配することになり、新大陸発見による巨大な富は、マクシミリアン、世の孫の手にころがり込むように、後の歴史は用意されていた。

                  遠藤泰男(フリーライター)
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                  排斥された人々のアジールとしての洞窟住居(遠藤泰男)

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                    グアディクス周辺の洞窟住居には、ロマたちの住居も多い。

                    レコンキスタでのキリスト教徒軍の傭兵として駆り出された後、彼らを待っていたのは、定住か追放かという、ロマ放浪禁止の勅令だった。

                    追い立てられた彼らが身を寄せたのも洞窟住居だった。

                    洞窟住居地域は、一般に街の中心から離れた場所にあることが多い。

                    レコンキスタ後のカトリック共同体から隔絶され、排斥された人々のアジール(聖域、避難場所)だったからだろう。

                    グアディクスは、カエサルによって造られた古代ローマ属州の古都アッキとして知られ、イベリア半島で、キリスト教に改宗した初期の都市の1つだと伝えられている。 カンドー 遠藤泰男 スペインでの初期キリスト教司教座所として、伝道布教の拠点の、1つだったのだ。人口2万人程度のグアディクス市には、不釣合いに豪奢な大聖堂も、初期の司教座所としてのプライドを感じさせる。

                    洞窟住居とキリスト教大聖堂という対照的な2つのアジールは、今でもグアディクスの顔として過去の歴史を投影している。


                    遠藤泰男(フリーライター)
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                    ロバ・タクシー(遠藤泰男)

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                      ミハスのロバタクシーと洞窟のラ・ペーニャ聖母の礼拝堂飾り刺繍を施した馬具で着飾ったミハス名物のロバ・タクシーが石畳をゆっくりと通り過ぎる。

                      1960年代に農作業に連れ添う愛らしいロバの姿が欧米の観光客の間で評判となり、ロバ・タクシーが誕生したのだ。

                      ミハスは庶民的なリゾート地、フエンヒローラから約7キロのミハス山麓にある。

                      紀元前10世紀から6世紀前にイベリア半島南部に栄えた古代王国タルテソスによって創設された古い歴史を持つ村だ。

                      地中海を望むエル・コンパス展望台のかたわらに、村の守護聖母である洞窟の礼拝堂、ラ・ぺーニャ聖母の礼拝堂がある。

                      プロの闘牛士が生まれ、町から町、村から村へと巡業するようになった。

                      これがスペインにおける闘牛の始まりだった。ロンダ出身の闘牛士、フランシスコ・ロメロは、ムレタ(闘牛に使う赤い布を付けた棒)を使って牛をいなしていく現代の闘牛の基礎を築いた人物だ。 カンドー 遠藤泰男 彼の息子、ファン・ロメロが、チームを組んで役割分担をして牛に挑む現代の闘牛術の基礎を確立させた。闘牛士の集団は大きくなり、ムレタと剣を使い、牛のとどめをさす正闘牛士マタドールに、モールや紙の飾りが付いた鈷を牛の肩にさし牛を弱らせる闘牛士、バンデリリェロ、馬上から槍をさす役のピカドール、最後に短剣でとどめをさす介添え役の闘牛士、カチェテーロなど、組織的な構成となった。

                      ファン・ロメロが築いた闘牛術は、現在はクアドリーリャと呼ばれる主役の正闘牛士マタドールに、二人のピカドール、三人のバンデリリェロで構成される闘牛士のチームに踏襲されている。

                      遠藤泰男(ライター)

                      珍しい地下階段(遠藤泰男)

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                        断崖に面して立つモーロ王(イスラムの王)の邸の内部に、断崖の峡谷の下まで続いている、ミナと呼ばれるアボメリク王によって造られた珍しい地下階段がある。

                        365段の石の階段は断崖の石塊を砕き、削って造られたもので、階段の途中に、戦時の水供給のための貯水槽、食料倉庫を備えているだけでなく、キリスト教軍捕虜の牢獄もあった。

                        現在、200段の地下階段が残っている。階段は人1人がやっと通れるほどの幅しかない。息が詰まりそうな不気味な地下階段だ。 カンドー 遠藤泰男 監視カメラが設置されており、係員が受付にあるモニターで見学者の安全を確認している。「皮袋を運びながら、ロンダで死ぬ」。ミナの牢獄に収容されたキリスト教徒捕虜の過酷な労働から生まれた言葉だ。

                        地下階段の底、グアダレビン川の川底から地上までの薄暗い長い階段を上り下りしながら、皮袋に入った水を運ぶ苦役を負い、多くの捕虜が命を落とした。

                        ミナの壁にはかつてのキリスト教徒捕虜たちが残した恨みの落書きが残っている。

                        カトリック両王によってロンダがキリスト教軍によって奪還されたとき、ここから300人余りのキリスト教徒の捕虜が開放されたという。

                        遠藤泰男(ライター)